パンク事始 安全ピン篇

先だって、ある田舎町に住む少年がパンクロックに目覚めた顚末について書きました。
が、髪型の話題にのみ終始しました。
パンクロックといえば、髪型だけではありません。

安全ピン、それを忘れてはいけません。
吉川弘文館発行の「大パンク史」によれば、「下層階級の生まれで貧しかったパンクキッズは、新しい服を買うなど望むべくもなかった。だから傷んだ服を安全ピンで補修し、着回したのである」ということです。
ファッションというより、必需品だったのですね。

当時1億総中流意識と呼ばれ、ぬるま湯につかっていた日本人。
平和ボケとも揶揄された日和見の若者に、そんなパンクの本質がわかるはずないのですが。
それでもファッションから入ろうと決めた以上、安全ピンを取り入れねばなりません。

ある日曜日、箱買いしてきてその日着ていた服に刺さるだけ刺しました。
本場ロンドンのパンクスは、顔や耳たぶにも刺したらしいですが。
痛いのが苦手な少年に、そこまでの勇気はなかったようです。

季節は、冬でした。
本当なら、そのなりでストリートを闊歩しなければならないところですが。
寒さに勝てず、第一闊歩しようにもそもそも自宅の辺りにストリートなどなく。

こたつに肩まで潜ってテレビを見ながら、日曜日は過ぎていったのでした。
1日横になっていたので、服に刺してあった安全ピンの何本かが外れました。
本人はそんなことにも気づかず、テレビに夢中だったようです。

夕方、外出していた父親が帰ってきました。
寒かったので、そそくさとこたつへ。
そして脚を入れるや否や「痛ぇ!」

父親から雷を落とされ、少年の安全ピンブームは1日で終わりました。
最強と自負していたジャパニーズパンクスも、父親の前ではしゅんとしてしまったのです。
箱買いした安全ピンの残りは、何にも使われることなく静かにサビていったとさ。

ベルボトム

車を運転中の信号待ちで、自分よりちょい年上と思われるご婦人を見かけた。
ベルボトムを履いて、犬の散歩をされていた。
その人のベルボトムがすごくカッコよくて、またすごく似合ってて。

久々に、カッコいいベルボトム履きを見かけた。
まるで、ジャニス・ジョップリンみたいだった。
その日から自分の中で、静かなベルボトムブーム。

古着屋それも結構マニアックなとこじゃないと、なかなか売ってないけどね。
ベーシックなブルージーンズのベルボトム、1本ぐらい欲しいな。
ビンテージ物の高いヤツじゃなくてさ、そんなの買えないから。

10歳ぐらい上の、いとこの話を書きます。
なぜか、ベルボトムが大好きだった模様。
もう誰も履いていない、80年代も90年代も履き続けていた。

地上最後の、ベルボトム履き。
履き続けているうちに一周して、ダサくなくなっちゃった。
むしろ、オシャレな中高年って雰囲気。

けど、別に何らかのこだわりがあってのことじゃないと思うよ。
フツーのオッサンだし、パンチパーマだし。
めんどくさいから、ってだけだったんじゃないかな?

流行とかに興味がなくなって、さて何履こうかってなったとき。
とりあえず若いときのアレ履いとこうかって、そんな単純な理由からだったんじゃないかな。
何しろ、パンチパーマだし。

本人に訊けば手っ取り早いんだけど、何か苦手なんだよ。
10コも上だと、いとこっていうより叔父みたいな感覚で。
おまけに凄い堅物で、昔は会うたびに説教されてたから。

何しろ、パンチパーマだし。

いとこたち

いとこが全部で何人いるか、今朝数えたら20人ほどだった。
法事のときぐらいしか会えないひと、そういうときでさえ会わないひと。
こどものころの顔しか憶えてないひともいて、そうなるともう他人だ。

小3ぐらいのとき、お盆に母方のいとこが祖母んちに勢ぞろいした年があった。
うち男の子が5人いて、朝から晩までその5人で遊んだ。
野球、缶けり、スイカ、夕焼け。

夕方近くだったか、庭にあった大きなビワの木にみんなで登り。
そこで「ある人ばなし」大会ってのをやった。
『ある人が……』から始まる即興のショートストーリーを、互いに披露しあう。

こどもの創造力は果てしないから、その場でどんどんルールが出来上がってゆく。
オチでみんなを爆笑させられないと終われない、とか。
小学生だから、うんことかの下ネタで充分笑いが取れたんだけどね。

こどもの世界にだって、本当はツラいこともいっぱいあったはずだ。
でもこんなノー天気な思い出ばかり記憶に残っているのは、人間の防衛本能のなせるワザか。
ヘヴィなことは、どんどん忘れ去らないと生きていけないという。

パンク童子

高校のとき雑誌を読んでいたら、「ロンドンの若者の間で、パンクロックが大流行!」と書いてありました。
ストーンズビートルズももう古い、これからはパンクロックの時代」
パンクロック?

「彼らは皆、髪の毛を逆立てている」
「着ているもののいたるところに、安全ピンを
刺す」
「なかには、顔や耳に刺すヤツも」

何度も何度もくりかえし読みましたが、イメージできません。
写真のない記事だったので、想像をふくらませるしかなかったのです。
他の資料もあたってみようと、本屋にも出かけました。

けれど田舎ですから、パンクロックの情報が載っている本なんて置いてありません。
テレビでもラジオでも、パンクロックに関する情報は一向に流れてこないのです。
ヤスジロー少年の頭の中は、未だ見ぬパンクロックのことでいっぱいでした。

その言葉の響きが、とても重要なことに思えたのです。
時代を、ひいては自分の人生をさえ変えてしまうムーブメントと思えてならなかったのです。
パンクロックになろう!と、心に決めました。

もちろん、音など聞いたこともありませんでした。
パンクロックのレコードなんて、田舎には売っていませんでしたし。
まずはファッションから入ろう、と決めたのです。

次の日曜日、床屋へ行きました。
いきなり「パンクロックにしてください」と言っても、床屋の兄ちゃんにはチンプンカンプンでしょう。
雑誌から得た情報を、とにかく必死で伝えました。

「髪の毛を、逆立てる⁈」
案の定、床屋の兄ちゃんは目を白黒させておりました。
「わざと、寝ぐせみたいに?」

今まで受けたことのない注文に、愛すべき田舎の理髪師は悪戦苦闘してくれました。
小一時間後、恐らくその小さな町で初めてのパンクキッズが誕生しました。
少年は、鏡を見ながら満足感いっぱいでした。

自分は、パンクロックだと思いました。
けれど、今ふり返ってみると。
そん時の髪型は、ただの襟足の長い角刈だったんですけどね。

5年生存率

去年の暮れの人間ドックをきっかけにガンとわかり、手術を受けたのが今年の2月。
早いもので、まもなく半年になろうというところまできました。
いまのところ転移や再発はなく、健やかな日々を過ごしています。

というか、手術する前から体調がすぐれなかった日は1日たりともなく。
いまだに自分がガンとは信じられないぐらい、自覚症状はまったくないのです。
執刀医の言によれば「自覚症状が出る前に発見できて幸運だった」ということになるのですが。

先日、本屋でガン関連の本を何冊か立ち読みしまして。
その中でもっとも心に残ったのが『最良のガン治療法は、ガンであることを忘れることだ』ってフレーズ。
だとしたら自分は理想的なくらい、ふだんは病気のことを忘れています。

思えば、去年の今ごろは毎晩ビールを飲み。
「俺の身体は、麦酒と煙草と珈琲で出来ている」なんて、うそぶいていたものですが。
その3つがなければ生きてゆかれない、とさえ思っていたのが。
禁酒、禁煙している!

あのころの自分が、タイムマシンに載って現れ。「そこまでしてお前は生きながらえたいのか」と問いかけてきたなら、迷わずこう答えよう。
「生きたい」

ガンを告知されたとき、5年生存率は20〜30%だと言われました。
ただ、これはあくまで数字上の話で。
自分がかかった胆管ガンの場合、もともとの患者数が少ないので。

仮に患者数が1人だったとしたら、その人が死ねば生存率はゼロになるわけですから。
数字のことはあまり気にする必要がないと、ネットにも書いてありました。
それでも、難治性のガンには違いないわけで。

とりあえずは1年、そこからまた1年というふうに目標をたて。
日々を大事に、生きていきたい。
そんでもって、もし5年生きられちゃったら。

いくら数字の話とはいえ、20〜30%に入るってのはかなりなことといえると思うので。
「持ってる人」に認定されても、いいんじゃないか。
だから宗教を立ち上げて、教祖になります。

いとこたち

いとこが全部で何人いるか、今朝数えたら20人ほどだった。
法事のときぐらいしか会えないひと、そういうときでさえ会わないひと。
こどものころの顔しか憶えてないひともいて、そうなるともう他人だ。

小3ぐらいのとき、お盆に母方のいとこが祖母んちに勢ぞろいした年があった。
うち男の子が5人いて、朝から晩までその5人で遊んだ。
野球、缶けり、スイカ、夕焼け。

夕方近くだったか、庭にあった大きなビワの木にみんなで登り。
そこで「ある人ばなし」大会ってのをやった。
『ある人が……』から始まる即興のショートストーリーを、互いに披露しあう。

こどもの創造力は果てしないから、その場でどんどんルールが出来上がってゆく。
オチでみんなを爆笑させられないと終われない、とか。
小学生だから、うんことかの下ネタで充分笑いが取れたんだけどね。

こどもの世界にだって、本当はツラいこともいっぱいあったはずだ。
でもこんなノー天気な思い出ばかり記憶に残っているのは、人間の防衛本能のなせるワザか。
ヘヴィなことは、どんどん忘れ去らないと生きていけないという。

築地で珈琲

昨日大変なことになってたみたいですけど、築地市場
おととい、行ってきたんですよ。
あの燃えてたあたりも、通ってきた……。

馬喰町の駅前の宿に泊まったので、歩いていきました。
日本橋の朝のオフィス街を、出勤するサラリーマンたちに混じって歩き。
ジーンズにアロハというふざけた格好で、申し訳ないようなザマァ見ろなような。

途中、裏路地にレトロな喫茶店を発見。
すかさず入って、モーニングを注文。
ホットサンドがことのほか美味くて、完食。

築地は三度目ですが、諸事情で前二回は入れなかった場内にも今回は入り。
そして、珈琲を飲んで帰ってきました。
珈琲を、というか珈琲しか飲まず。

築地まで行って、場内にも入って。
寿司も海産物も食わず、珈琲一杯だけで帰ってくる。
わざわざ築地まで行って、珈琲。

それがワビサビってもんですよ、諸君。
決して、途中でホットサンド食っちゃって腹が朽ちかったからってわけじゃないからね。
決して、途中でホットサンド食っちゃって腹が朽ちかったからってわけじゃないからね。