いつかわかってもらえるさ

子供の自殺が一番多い日は、9/1なんだってね。
わかるよ、俺も暗黒の高校時代送ったから。
8/31は、絶望の日だったよね。

でも、死ななかった。
怖くて死ねなかったってのが本当だけど、それでよかったと思う。
行きたくないんなら学校なんて行かなくていいから、死ぬのだけはやめといた方がいいよ。

世界中で自分ひとりだけって今は思うかもしれないけど、いつかそうでもないって気づく日がくるから。
いま現在の絶望の日々が、やがて強力な武器になるから。
生きててもほとんどいいことないかもしれないけど、たまに面白いことも起こるから。

親の手前いろいろあるんだったら、登校するふりしてとりあえず家からは出て。
図書館へ行くとか、山へ行くとか。
いつか走り出すときに備えて、なりを潜める時期って考えればいいじゃんか。

若いみなさんは、RCサクセションってバンドの「トランジスタ・ラジオ」という曲を知らないかもしれないけど。
馴染めなくて孤立しててラジオだけが友達で、言いたいことも上手く言えなくて。
そんな感情をいつの日か詩とか絵とか歌とかで表現したら共感を得られる、そんな「いつかわかってもらえる」日がくるって。

Ah〜!

ロックっていうのは、Ah〜!って叫ぶことなんだよ。
J.レノンが「ツイスト・アンド・シャウト」でAh〜!って叫んだときから、そう決まったんだ。
ロックとはAh〜!と叫ぶことだって、世界中の人に知らしめたんだ。

ロックバンドで歌うってことは、Ah〜!って叫ぶことなんだ。
Ah〜!って叫ぶために、人はバンドを結成するんだ。
それが、ロックの基本だったのさ。

けれど、Ah〜!って叫ばないロックってのも現れてきて。
お利口なやつとか、年とってお利口になったやつとか。
Ah〜!って叫ばないくせに、自分らもロックだって主張する。

だからAh〜!派は、たとえどんなことが起こったとしても貫かなければならないのだ。
ちょっとぐらい歌が「お上手」だからといって、うまいっぷりして歌う奴らに負けるわけにはいかないのだ。
変にこぶしを効かせたり声色を変えたりして歌ってるような奴らに、負けるわけには絶対いかないのだ。

 

君膵

2月に受けた手術、実はかなり大がかりなものでして。
そんじょそこいらのチンケな病院じゃできねぇオペだよ、と主治医は言いました。
もちろん、そんな言い方はしなかったけど。

肝臓で作られた消化液(胆汁)は胆嚢で濃縮され、胆管という管を通って十二指腸へ送られます。
その胆管に、ガンができていました。
まずはそれを切除するのが、大きな目的でした。

さらに、ガンは周囲にも広がっていましたので。
胆嚢全部と、膵臓の半分を切りました。
さらに通常は十二指腸も切るところですが、自分の場合は潰瘍のために10年前にもう切ってありました。

胆管がなくなったわけですから、胆汁の通り道をどうにかせねばなりません。
対策として、腸を引っ張り上げてきて肝臓と繋げます。
半日がかりの、大手術だったわけです。

「大変な手術なので、大勢のスタッフが関わります。我々も頑張りますから、イトウさんも頑張ってください。まさかもう、タバコはやめてくださいましたよね?」

数日前の説明で、主治医は言いました。
「やめました」と答えたけど、ごめんなさいM先生。
あの日の時点では、まだ吸ってました。

それほどの大手術を、仕事とはいえたくさんの方々がこんな男のために頑張ってくれる。
その命を無駄にはできないと、節制を決意しました。
自分ひとりで生きてるんじゃないと、きれいごとでなく感じたのです。

で、今日の投稿で何が言いたかったかというと。
以上のような経緯から、「君の膵臓を食べたい」と言われても。
もう、半分しかないよ。

パンク事始 安全ピン篇

先だって、ある田舎町に住む少年がパンクロックに目覚めた顚末について書きました。
が、髪型の話題にのみ終始しました。
パンクロックといえば、髪型だけではありません。

安全ピン、それを忘れてはいけません。
吉川弘文館発行の「大パンク史」によれば、「下層階級の生まれで貧しかったパンクキッズは、新しい服を買うなど望むべくもなかった。だから傷んだ服を安全ピンで補修し、着回したのである」ということです。
ファッションというより、必需品だったのですね。

当時1億総中流意識と呼ばれ、ぬるま湯につかっていた日本人。
平和ボケとも揶揄された日和見の若者に、そんなパンクの本質がわかるはずないのですが。
それでもファッションから入ろうと決めた以上、安全ピンを取り入れねばなりません。

ある日曜日、箱買いしてきてその日着ていた服に刺さるだけ刺しました。
本場ロンドンのパンクスは、顔や耳たぶにも刺したらしいですが。
痛いのが苦手な少年に、そこまでの勇気はなかったようです。

季節は、冬でした。
本当なら、そのなりでストリートを闊歩しなければならないところですが。
寒さに勝てず、第一闊歩しようにもそもそも自宅の辺りにストリートなどなく。

こたつに肩まで潜ってテレビを見ながら、日曜日は過ぎていったのでした。
1日横になっていたので、服に刺してあった安全ピンの何本かが外れました。
本人はそんなことにも気づかず、テレビに夢中だったようです。

夕方、外出していた父親が帰ってきました。
寒かったので、そそくさとこたつへ。
そして脚を入れるや否や「痛ぇ!」

父親から雷を落とされ、少年の安全ピンブームは1日で終わりました。
最強と自負していたジャパニーズパンクスも、父親の前ではしゅんとしてしまったのです。
箱買いした安全ピンの残りは、何にも使われることなく静かにサビていったとさ。

ベルボトム

車を運転中の信号待ちで、自分よりちょい年上と思われるご婦人を見かけた。
ベルボトムを履いて、犬の散歩をされていた。
その人のベルボトムがすごくカッコよくて、またすごく似合ってて。

久々に、カッコいいベルボトム履きを見かけた。
まるで、ジャニス・ジョップリンみたいだった。
その日から自分の中で、静かなベルボトムブーム。

古着屋それも結構マニアックなとこじゃないと、なかなか売ってないけどね。
ベーシックなブルージーンズのベルボトム、1本ぐらい欲しいな。
ビンテージ物の高いヤツじゃなくてさ、そんなの買えないから。

10歳ぐらい上の、いとこの話を書きます。
なぜか、ベルボトムが大好きだった模様。
もう誰も履いていない、80年代も90年代も履き続けていた。

地上最後の、ベルボトム履き。
履き続けているうちに一周して、ダサくなくなっちゃった。
むしろ、オシャレな中高年って雰囲気。

けど、別に何らかのこだわりがあってのことじゃないと思うよ。
フツーのオッサンだし、パンチパーマだし。
めんどくさいから、ってだけだったんじゃないかな?

流行とかに興味がなくなって、さて何履こうかってなったとき。
とりあえず若いときのアレ履いとこうかって、そんな単純な理由からだったんじゃないかな。
何しろ、パンチパーマだし。

本人に訊けば手っ取り早いんだけど、何か苦手なんだよ。
10コも上だと、いとこっていうより叔父みたいな感覚で。
おまけに凄い堅物で、昔は会うたびに説教されてたから。

何しろ、パンチパーマだし。

いとこたち

いとこが全部で何人いるか、今朝数えたら20人ほどだった。
法事のときぐらいしか会えないひと、そういうときでさえ会わないひと。
こどものころの顔しか憶えてないひともいて、そうなるともう他人だ。

小3ぐらいのとき、お盆に母方のいとこが祖母んちに勢ぞろいした年があった。
うち男の子が5人いて、朝から晩までその5人で遊んだ。
野球、缶けり、スイカ、夕焼け。

夕方近くだったか、庭にあった大きなビワの木にみんなで登り。
そこで「ある人ばなし」大会ってのをやった。
『ある人が……』から始まる即興のショートストーリーを、互いに披露しあう。

こどもの創造力は果てしないから、その場でどんどんルールが出来上がってゆく。
オチでみんなを爆笑させられないと終われない、とか。
小学生だから、うんことかの下ネタで充分笑いが取れたんだけどね。

こどもの世界にだって、本当はツラいこともいっぱいあったはずだ。
でもこんなノー天気な思い出ばかり記憶に残っているのは、人間の防衛本能のなせるワザか。
ヘヴィなことは、どんどん忘れ去らないと生きていけないという。

パンク童子

高校のとき雑誌を読んでいたら、「ロンドンの若者の間で、パンクロックが大流行!」と書いてありました。
ストーンズビートルズももう古い、これからはパンクロックの時代」
パンクロック?

「彼らは皆、髪の毛を逆立てている」
「着ているもののいたるところに、安全ピンを
刺す」
「なかには、顔や耳に刺すヤツも」

何度も何度もくりかえし読みましたが、イメージできません。
写真のない記事だったので、想像をふくらませるしかなかったのです。
他の資料もあたってみようと、本屋にも出かけました。

けれど田舎ですから、パンクロックの情報が載っている本なんて置いてありません。
テレビでもラジオでも、パンクロックに関する情報は一向に流れてこないのです。
ヤスジロー少年の頭の中は、未だ見ぬパンクロックのことでいっぱいでした。

その言葉の響きが、とても重要なことに思えたのです。
時代を、ひいては自分の人生をさえ変えてしまうムーブメントと思えてならなかったのです。
パンクロックになろう!と、心に決めました。

もちろん、音など聞いたこともありませんでした。
パンクロックのレコードなんて、田舎には売っていませんでしたし。
まずはファッションから入ろう、と決めたのです。

次の日曜日、床屋へ行きました。
いきなり「パンクロックにしてください」と言っても、床屋の兄ちゃんにはチンプンカンプンでしょう。
雑誌から得た情報を、とにかく必死で伝えました。

「髪の毛を、逆立てる⁈」
案の定、床屋の兄ちゃんは目を白黒させておりました。
「わざと、寝ぐせみたいに?」

今まで受けたことのない注文に、愛すべき田舎の理髪師は悪戦苦闘してくれました。
小一時間後、恐らくその小さな町で初めてのパンクキッズが誕生しました。
少年は、鏡を見ながら満足感いっぱいでした。

自分は、パンクロックだと思いました。
けれど、今ふり返ってみると。
そん時の髪型は、ただの襟足の長い角刈だったんですけどね。