眠り

うとうと寝落ちしそうな時、よく見る夢。
車を運転していて、いきなりブレーキが効かなくなる夢。
しかも、山下りで急カーブの連続。

ハンドル操作で何とか乗り切るうち、目が覚める。
車を運転するようになってから、見始めた。
40年近く見ている計算になるが、未だ慣れない。

近所に、Nさんという家がある。
「寝落ちしそうなときの夢に、いつもNさんちのオバさんが出てくる。Nさんちのオバさんが出てくると、私はもうすぐ眠るんだなぁって毎晩思う」
子供のころ、妹が言ってた。

眠りに落ちるための儀式といえば、かつて私の場合は相撲だった。
自分の分身たる一人の力士がいて、彼が入門してから苦労の末にやがて横綱になる。
その長い長い物語を、寝る前の布団の中で妄想していた時期があるのだ。

それをしているうちに、いつの間にか眠っている。
何年かかけて、話は引退の場所の千秋楽まで進み。
結びの一番で、好敵手たる東の横綱と対戦するのだが。

そのころになると条件反射の効果が著しく、時間前の仕切りのうちに眠ってしまう。
かつての「アストロ球団」のような、遅々とした展開。
おかげで、布団に入ってもなかなか寝付けないという悩みとは無縁だったが。

ただ、いいことの裏には悪いことも潜んでいて。
テレビの相撲中継を見ていると、必ず途中で寝てしまう。
眠りという、摩訶不思議な世界。

絵が見える

「セットの案がすぐ決まる曲は必ず売れた」
と、秋元康氏がラジオで言っていた。
氏は、「ザ・ベストテン」の構成をやっていたのだが。
どういうセットでいくかの、作家や美術も含めた全スタッフによる打ち合わせ会議があり。

そこで、方針がすぐ決まる曲。
そういう曲はヒットするというジンクスがあったそう。
「一度聞いてすぐ絵の浮かぶ曲は強いということだろう」とのことだった。

これ、納得。
いい曲は、映画みたいに場面が浮かぶ。
かつて作詞家の喜多條忠氏も「売れる曲の条件は『色』と『音』と『温度』が伝わることだ」と語っていたが。

氏の代表作「神田川」でいえば『赤い手ぬぐい』『小さな石鹸カタカタ鳴った』『冷たいねって言ったのよ』が、それぞれ色と音と温度を表す。
これも、「聞いてすぐ絵が浮かぶ」ということに繋がるだろう。
すぐ絵が浮かぶと相手に伝わり易いし、記憶に残る。

曲に限らず、文章でも話でも。
そういう表現が出来る人になりたい、言葉の感覚を磨きたい。
常々、自らに言い聞かせている次第である。

レコードを買うということ

貸しレコード屋というものが世に現れたのは、二十歳ぐらいのころだった。

世に現れたといっても、自分が住んでいた田舎には殆どまだ出店されていない。

レコードは買うものという意識のまま、我々は大人になった(たぶん最後の世代)。

自分の意志で、自分の金でレコードを買い始めたころ。

LPが2500円、シングルが500円。

一か月の小遣いが、3000円ぐらい?

レコードを買うのは、大冒険だった。

LPを買うと、その月は殆ど小遣い無しで過ごさねばならぬ。

いくら欲しくても、それはちょっと出来ない相談だった。

買えるのは、お年玉などの臨時収入があったとき。

高校生になってからは、バイトをしたときも加わったが。

いずれにせよ、しょっちゅう買えるものじゃない。

買うときは、大げさでなく命がけだった。

ラジオや雑誌、口コミなどで事前に情報収集し。

当日はレコード屋の棚を一枚一枚、吟味。

選ぶのに、小一時間はかけたなぁ。

そうやって選んだ一枚はその後数ヶ月間、毎日のように聴く。

まさに、宝物だった。

家に帰ってきて袋を開け、取り出したレコードに針を置く。

あの至福の瞬間を、未だありありと思い出せるよ。

塩化ビニールの、独特の匂いと共に。

トラックドライバー

関東自動車道、酒々井パーキングエリア内牛丼屋。
斜向かいに、トラックの運ちゃんぽい人が座ってて。
定食を食いながら、電話している。

漏れ聞こえてくる内容を、聞くともなく聞いていると。
電話の向こうの相手に、道を教えている模様。
千葉のどっかから、会津への行き方。

真夜中に走行するらしく、だったら下道でも空いてるからと。
夜中なら、余裕で100キロぐらいで走れる(良い子は真似してはいけません)ルートがあるからと。
延々と、15分ほどかけて。

〇〇分ぐらい走るとパチンコ屋があるから、次の次の信号を左。
曲がったらすぐセブンがあるから、その先をまた左。
まるで目の前に映像があるかの如く、曲がるところの目印まで事細かに。

方向音痴の自分は感動しつつ、ただただ聞き入ってた。
電話の相手が、果たして全て把握できたかなどと余計な心配までしつつ。
ホント、どの世界でもプロって凄い。

父の戦争体験

亡き父は、昭和二年生まれだった。
一年上の人は兵隊に行き、三年ぐらい下の人は学童疎開
昭和二年生まれというのはその狭間の、徴兵になるかならないかの境目だったらしい。

空襲を体験してる人が多いのも、昭和二年生まれの特徴のようだ。
上の人は戦地、下は疎開先にいた。
だから、空襲体験者は意外と少ない理屈だ。

もっともその頃、父がどこで何をしていたかは殆ど知らない。
当時のことを、全くといっていいくらい語らなかったからである。
空襲自体は体験したようだから(断片的には話してくれた)、思い出したくもない経験だったのだろうと推察する。

語ってくれた数少ない空襲体験は、主に二つだった。
一つ目は「さっきまで隣にいて普通に会話していた人が、次の瞬間死んでいた」。
もう一つは「あまりに激しい恐怖に直面した時、本当に全身の毛が逆立つ」。

それ以外のことは、殆ど黙して語らなかった。
聞き出しておけば良かったという気もするし、心の中に閉じ込めておいたままで良かったのかもとも思う。
そういった、語られぬまま消えていった戦争体験もたくさんあるんだろうな。

ケータイを持たない最後の日本人

世に携帯電話がだいぶ普及してきた2000年ごろ、自分はまだ持っていなかった。
類は友を呼ぶというが、周りもアナログ人間ばかり。
なきゃないで、あのころはまだフツーに生きていけたのだ。

そんなある夜、某女友達と呑んでいた。
話題はいつしか、携帯電話のことに。
将来的にも自分には必要ないものと思っていたから、彼女に向かって高らかに宣言した。

「俺は、ケータイを持たない最後の日本人になるんだ!」
すると彼女は、こう応えた。
「無理だね。だってアタシがいるから」

その直後、彼女は遠くへ引っ越した。
いまは、年賀状とかのやり取りがあるのみだ。
だから、彼女がいまケータイを持っているか否かはわからない。

一方自分は、この投稿もケータイからしている。
彼女に会ったとき、いったいどう言い訳しようか。
ケータイを持ち始めてから、ずっと考えていることだ。

M先生

家人が夜中に急に具合が悪くなり、救急病院へ。
待合室で待っていると、当直医が診察室から顔を出した。
その顔を見てびっくりしたのは、先だって筆者が入院した際の担当医・M先生だったからである。

入院したのは手術を受けるためだったから、M先生は外科医である。
外科医でも夜間救急外来の当直医をやるのか!というのが最初の驚き。
そして家人の診察をてきぱきとこなす様に、さらなる驚き。

家人の不具合は、皮膚科の分野が原因だった。
消化器系の外科医であるM先生には専門外では?と、素人考えで思ったが。
されど、きっぱり「蜂窩織炎」と判断を下す。

しかも、解説図付きでメモ用紙に書いた「蜂窩織炎」の文字。
あんな難しい字を、すらすらと。
その後の、素人にも分かりやすい病状の説明。

それにしてもM先生、あなたはいつ寝ているのですか?
入院中は日曜以外はほぼ毎朝夕2回、回診にきてくれました。
外科医としての執刀、一般外来の診察、さらには夜勤もこなしていたなんて。

たまにいる恐らくごく一部の悪徳な輩のために悪いイメージを持たれたりしがちですが、こんな立派な医師もいる。
もちろんそっちの方が、圧倒的に多いはず。
このような立派な方に担当して貰えて、自分はかなり患者運がいいと改めて実感した次第でございます。