映画みたいな話

同級生のN、就職して自宅からちょっと離れた地にある社員寮で暮らし始めた。
近くに、ちょっと遠縁に当たる親戚の家があった。
両親から聞いていた彼は、 ある週末に訪ねてみた。

老夫婦だけで、ひっそり暮らす家だった。
彼らはNの気性を気に入り、Nもまたその家の雰囲気を愛した。
しょっちゅう遊びに行っては食事をよばれ、そのうち泊まるようにもなった。

数年後、老夫婦は相次いで世を去った。
身近な身寄りは、いなかった。
広大な土地(山ひとつ!を含む)や、かなりの資産が遺された。

遺言で、それらは全てNに託されたという。
Nより近い親等の親族もいたが、老夫婦はいつも遊びにきてくれる遠縁の若者を選んだのだった。
こんな映画みたいな話が、本当にあるんだよなぁ。

ガンド猫、オガンヂメ、デゴ様

幼少のころ、暗くなるまで外で遊んでいたりすると。
大人たちから、脅された。
「ガンド猫(ネゴ)ニ、咥エデガレッチャード」

標準語に訳すと「ガンド猫に咥えられて連れ去られてしまうよ」といったところだが、ガンド猫に相当する標準語が見つからない。
当時まわりの大人に「ガンド猫って、どんな猫?」と訊いたものだが、皆ただ笑うだけでちゃんとは答えてくれなかった。
彼らも、わかってなかったんだろうな。

ガンド猫、……。
辺りが暗くなるとどこからともなく現れ、子供を連れ去って(そして恐らく食して)しまう。
かなり恐ろしい存在として、ヤスジロー少年の脳裏には刻まれた。

同じような言葉に、「オガンヂメ」というのがあった。
髪型や着ているものがだらしない人に対し、「オガンヂメみでぇなかっこして……(オガンヂメみたいな格好して)」と批難する場合に使う。
ではそのオガンヂメが何者なのか、やはり誰も知らなかった。

さらに、さらに。
デゴ様という言葉もあり、これは必要以上に厚着して着膨れている人を揶揄するような場合に使った。
用例「そーたに、デゴ様みでぇに着て……(そんなに、デゴ様のように着て)」

いずれも、今ではほとんど聞かない。
茨城弁といっても、県内全域で使われていたわけでもなさそうである。
なぜ、どういう経緯でごく一部にだけ流通する言葉が生まれたのであろうか。

髪もひげも伸びて乱れて

むかし、永六輔のラジオで聞いた話。
ナターシャセブンのバンジョーのひとが歩いて帰宅する途中(京都在住)、町中でアメリカ白人のヒッピーと知り合った。
そして野宿しようとする彼を無理やり家に連れ帰り、泊めてやった。

翌朝、めしを食っているとき。
旅人がリビングに置いてあったバンジョーに気づき、是非とも演奏してくれと要望した。
聴きながら、カントリーの本場の人が感動でボロボロ涙をこぼしたそうである。

ひとしきり泣いたあと、「お前はアメリカで演奏する気はないのか」と訊いた。
「そういう気持ちはあるが、金がないから無理だ」とバンジョー弾きが答えると、旅人は鞄から小切手を取り出した。
「これに、好きなだけの金額を書け」

ボロボロの服にボサボサの髪、伸び放題の髭。
どこからどう見ても浮浪者にしか見えない旅人。
実は1年間のバカンスで世界を旅する、IBMの重役だったのだというお話。

畜産農家の前

子供の頃の、遠い遠い遠い夏の日。
いとこと歩いて遊びに行く途中、ある酪農農家の前を通ったら。
牛舎から脱走してきた牛が一頭、こちらに角を向けて迫ってきた。

我々は一目散に、図ったわけではないが(そんな余裕すらなかったけど)それぞれ別々の方角に走り出し。
それが功を奏したか、無事に逃げ切った。
暑い暑い夏の日、遠い遠い夏の日。

畜産農家の前

子供の頃の、遠い遠い遠い夏の日。

いとこと歩いて遊びに行く途中、ある畜産農家の前を通ったら。

牛舎から脱走してきた牛が一頭、こちらに角を向けて迫ってきた。

我々は一目散に、図ったわけではないが(そんな余裕すらなかったけど)それぞれ別々の方角に走り出し。

それが功を奏したか、無事に逃げ切った。

暑い暑い夏の日、遠い遠い夏の日。

知らない方がいい事実

知らなかったころには全く気にならなかったのに、なまじ知ってしまったばかりに気になって仕方ないこと。

たとえば、イヤホンに右左があるということ。

知らなかったころは、どっちがどっちでも全然気にならなかったが。

知らなきゃ知らないで違和感もなく使っていたくせに、微妙な音の違いなんてわからないくせに。

中途半端な情報に縛られて不自由になる、そんな例は他にもいっぱいある。

知るということは、果たして無条件に人を幸せにするのだろうか。

少しだけ滲んだアドレス

ラジオで「あの日にかえりたい/ユーミン」が、かかった。
実は歌詞に前から気になっていたところがあり、それを頭に置きながら聴いたのだが。
今回も、疑問は解決しなかった。

なので今回はそのことについて書き、皆々さまの解釈を求めたい次第。
全歌詞の内容は、ネットなどで検索していただくとして(引用するとJASRACサマが怖いので)。
大ざっぱに言えば、恋に破れた女性が男の元を去ってゆく(直接別れは告げないっぽい)話だが。

で、自分が気になるのはラスト近くの『少しだけ滲んだアドレス 扉に挟んで 帰るわ あの日に』の部分。
『アドレス(住所)』を『扉に挟』むって、どうゆーこと?
なんかの比喩?だとしたら何の?

『少しだけ滲んだ』のは、涙のせいで異論のないところだろう。
その流れでいくと『アドレス』は、別れる相手のものに違いない。
それをなぜ、『扉に挟』むのか。

そもそも『アドレス』って、アドレス帳?メモ用紙か何んかに書いたもの?
この楽曲、1975年リリース。
その当時、『アドレス』って言葉は既に日本人の中に定着していたのだろうか。

主人公が、物凄く未練がましいヤツだった場合。
自分の転居先(今までは一緒に暮らしていた)を
記した紙に「よかったら、連絡して」と添え書きして……ってパターンも考えられるが。
どうも、そこまで女々しくはない感じがする。

こんな解釈は、どうだ?
知り合ったころに「これ、俺の住所だから。よかったら、遊びに来て」なんて感じでメモを渡された。
電話番号じゃなくて住所なのは、当時よほどの金持ちでもない限りは個人で電話なんて引いてなかったから。

主人公は、それを宝物のように大事にとっておき。
恋がうまくいかなくてつらいときには取り出して、涙で濡らしながら見つめ。
だが今、別れるにあたってそれを……。

果たして、皆々さまのご解釈は?
ぜひ、ご高説を伺わせてください。
ユーミンさまご自身のコメントも、大歓迎。